深夜1時過ぎ、布団に入ってから三十分が経った。肩甲骨のあたりが重くて、呼吸が少し浅くなるのを感じている。スマホの画面には、かつて私が所属していた「全裸SEX教団」に関する記事が表示されている。ああ、また来たな、これ。私はあそこにいた。あの団体のことは、今も正確に言葉にできる。勧誘の手順、金銭の榨取、身体の取引、そして「特別な仲間」という名の孤独の販売。当時の私は、それを全部「理解」していた。理解していたからこそ、辞められなかった。原因も症状も、自分の取扱説明書に書いてある項目そのままだ。問題は、読んだ上で何もできなかったこと。知っているだけでは、人は変わらない。こんなこと、人に対話セラピーをする私が一番よく知っている。相手の話を聞いて、感情を言葉に置き換えて、次の一歩に繋げるのが仕事だ。それができない人がいるとしたら、それは今夜の私だ。つまり、私は今夜も自分の過去について、精度の高い分析をして、何もしなかった。
【気づきは深夜1時にやってくる】
気づきはいつもこうだ。まず身体が信号を出す。それを脳が受け取る。受け取った脳は、即座に分類モードに入る。肩が重い、という感覚を言葉に換算すると、いくつかのタグが浮かぶ。デスクワーク、姿勢、自律神経、あの頃。これが一瞬で終わる。私は他人の話を聞いて言語化するのが仕事だから、自分の症状を分類するのは得意なんだ。得意すぎて、分類に時間がかからない。問題はその次に来る。
「じゃあ、どうする?」
この問いに対して、私の頭はまず過去の事例を引っ張り出す。教団にいた時、私は他の信者より三週間早く「これはカルトだ」と気づいた。構造が見えた。金銭的窮乏を作り、帰属欲求で満たし、償いと開運で身体を売らせる。古典的な手順だ。気づいたから辞めたかといえば、そうじゃない。気づいたから、自分が「自発的に選んでいる」という免罪符を持てた。理解が行動の代替になった。そしてそのまま、半年いた。自分の取扱説明書は、あの時から分厚かった。運用は、あの時から失敗していた。
知識は在庫として十分にある。あるいは十分すぎる。これが、少し困ったことなんだよね。教団の構造も、自分の入り方も、今なら図解までできる。知識が増えるほど、自分への言い訳が消えていく。以前なら「わからないからできない」と言えた。今は、わかってるのにできない。当時の私は、賢さが罠だった。構造を理解するほど、自分が「自発的に選んでいる」という幻想を持てた。言い訳が一つ潰れるたびに、自分の行動のダメ出しが増えるだけで、なかなか前向きな状態ではない。
【検索履歴だけは前向き】
今夜も流れは同じだった。まず布団の中でスマホを開いて、「教団 脱会後 ストレス」で検索する。記事は三つ見つけた。読める、と思った。でもその前に、いつもの脳内会議が始まる。理性がいつもの議長席に座って、議題を読み上げる。
「本日の議題は、『私がこのまま寝ると明日も痛い』について。まず、原因の把握から始めたい。」
そこで繊細な自分が手を挙げる。「今日は特にデスクに張り付いていた。昼休みもちょっとだけで済ませた。同僚の話も聞きながら手を動かしていた。仕事の密度が高かった。だからもう少し、状況をいたわるべきでは。」理性がうなずく。「確かに。今日の負荷は通常より大きかった。では、対策の検討に入ろう。どうする?」
実行担当の私が、そろそろ眠そうに口を開く。「……いや、それストレッチやればいいんじゃない。動画も見つけたし。三分で終わるらしいぞ。やったら寝よう。」
だがこの時、もう一人の分析担当が冷静に反論する。「いや、でもあの頃と同じではないか。構造はわかっていて、実行が起きない。自分を動かすのに、いつも外部の権威が必要だった。『これが正解だ』という上司のような何かがいないと、自分の意思で動けない。これは教団の残滓ではないのか。」
結局、私はもう一度スマホに戻っていた。動画の保存をする。そして「脱会後 自己肯定感」も検索する。そうしているうちに、目が覚めてくる。青白い光が、脳に「まだ昼間だ」と誤報を送る。これもわかっている。わかっているのに、調べる行為そのものが、眠気を遠ざける。気づいてから、分析して、調べて、準備する。ここまでは毎回完璧。完璧すぎて、最後の一歩が余計に重く見える。必要な行動が、わかっている行動が、何かの通行手形みたいに思えてくる。持ってれば入れると思ってるけど、実際には入場していない。
【脳内会議は全員出席で、議事録だけが長い】
少し離れた目線で観察すると、私は知識の量と、自分を許せる範囲が反比例しているような気がする。言語化が得意な分、言葉で解決した気になりやすい。そして言葉で解決した気になった分、実際に身体を動かす必要性が薄れる。これは、あの頃と同じだ。教団の中で「言葉で救われた」と感じていたのは、実は「言葉で理解した」ことと混同していた。理解が救済だと思っていた。だから、全裸でいても、頭だけは着飾っていた。
たぶん、私は「理解する」という行為を、すでに「行動した」ことに換算している癖がある。取扱説明書を読んだところで、操作していないのは、運用に失敗しているだけだ。自分の場合は、取扱説明書のページが増えるほど、読むだけで充電した気持ちになってしまう。まるで、スマホを充電器に差し込むだけで、実際には電源が入っていないような状態。これは、少なくとも私の仕様だ。脳内会議は全員出席で、議事録だけが長い。でも、実行担当の出席確認は取れていない。いや、いるかもしれない。いるんだけど、議論が長くて帰ってしまう。分析部門が、もっと分析したいと言うから。繊細部門が、もう少し状況を確認したいと言うから。実行担当は、じゃあまた明日、と言って帰る。
これは、私が人に対して絶対にしない構図だ。相手の話は最後まで聞く。自分の話は、途中で「もういいや」となる。自分への対応が、急に雑になる。人には丁寧なのに、自分には雑。あの頃も、教団の仲間の話は最後まで聞けていた。自分の限界は、雑に「もういいや」としていた。自分の取扱説明書は持っているが、運用に失敗する。
布団の中で、今もう一度肩の重みを確認した。原因はわかっている。対策もわかっている。明日は平日だ。出勤前に十分な睡眠を取るべきだ。それなのに、今この文章を書いている。分析はまだ終わっていない。いや、終わっていた。終わっていたはずなのに、またこの仕様が出ているな、と思う。頭では全て完了。身体だけが未対応。あの頃も、教団の構造は完璧に理解していた。頭では全て完了。身体だけが、あの部屋にいたままだった。ということで、今夜の結論はこうだ。明日の朝、絶対に肩が痛いだろう。それは、わかりきったことだから。わかりきった不調を、わかりきったまま受け入れるしかない。これが、私の基本操作の一つだ。まあ、明日も同じことをするだろう。しょうもないな。でも、今夜はこのくらいにしておく。いや、この文章を書くのも、実は脳内会議の延長線上にある。分析の続きだ。結局、何も始まっていない。全裸のまま、何も始まっていない。それは、最初からわかっていたことだ。
