認知症の心理学【高齢者は社会資源】アプローチ方法について雑記

こんにちは、ゆえです。
先日こんなツイートをしました。

「長谷川式」と呼ばれる早期認知症診断の検査指標を開発した、長谷川和夫医師(90)が認知症と診断されたそうです。「自身が認知症になって初めて研究は完成する」と発言していたようです。認知症専門医が認知症になったという現実をどう受け入れ、何に気づくのか。興味深いニュースを見たのでした。

今回は認知症について考えていきます。



認知症の心理学【高齢者は社会資源】アプローチ方法について雑記

私たちの役割は何なのでしょうか?

私たちの「専門性」を改めて考え直すきっかけになるはずです。
そして、それは「認知症とともに生きる」社会を実現するための最後のチャンスなのかもしれません。

一人でも多くの方に見てもらいたいと思います。

  • 支配ではなく自立
  • 困っていない認知症の人は、普通の人
  • 人には役に立っているという実感
  • 失われない記憶やプライミング記憶
  • その人のストレングスに働きかける




高齢者は社会資源

これまでの介護の在宅サービスは、ワンアイテムショップ。

使いにくい。

その場でサービスを切り替えたりしにくい。
在宅が難しいといわせてしまう。

小規模多機能は、デイもショートもヘルパーも、フレキシブルに使えて、常にケアマネが伴走している。

ニーズに応じてすぐに切り替えられる。

最近は看護小規模多機能ができたり、補助があるので(専門職を雇える)、リハビリなどが提供できる。

老健に入れるとどんどん弱っていくが、小規模多機能であればどんどん元気になるので在宅復帰率が高くなる。

地域交流スペース、地域の居場所事業なども安価に併設できる。
道具として小規模多機能は非常に使いやすい。

これまでの介護保険は、単位を食いつぶすようなものだった。
ニーズではなくウォンツを満たすものだった。

1億2千万人分のインフラは、100年後には4分の1で十分になる。

いま必要だからといって特養をバンバンつくって将来世代はどうなるのか?
近所の子供が遊びに来る小規模多機能が必要。

2階は研修室になっているとか。
地域の書道教室などをやっていて、たくさんの人が使っている状況など理想。

事業所は、グループホームやデイサービスに隣接している。
塀や垣根はない。

学校に行く子供たち、駅に行くサラリーマンは敷地の中を通りぬけていく。
高校生のカップルが手をつないで歩いていくこともある。

ばあちゃんたちが餃子を焼いていると、子供たちがそのまま立ち寄って食べていく。
こういう環境が自然にできている。

スターバックスで7時間座っていられる人がいますか?

なのに、僕らは高齢者をデイサービスで、画一的な椅子に7時間座らせようとしている。
足腰が弱い人もいる。

なぜここにいるのかわからない人もいる。
座っていられないと「徘徊」などと問題扱いされる。
どっちがおかしいのでしょうか?

自立支援が本当の仕事なのに、実際には「支配」が仕事になってしまう。
みんなやめてしまいます。

だって、みんな本当は優しい人たちなんだから。
支配をするよう強要されれば、やめてしまいますよね。

高齢者にはリロケーションダメージがある。
環境変化に非常に弱い。

小規模多機能は、デイも泊まりも同じ施設。
だから環境に適応がしやすい。

小さな部屋がふすまで仕切られ、トイレにいくにもほかの部屋を通らないといけないようになっている。

こんな作りにすればいい。



高齢者は視野狭窄がある

視野に入ってからケアをするのがユマニチュードの一つのポイント。

これまでの高齢者施設(リビングなどの共有施設)は広すぎると思う。
視覚情報の心地よさは、精神的な安定につながる。

  • ドーパミン
  • セロトニン
  • オキシトシン

プラスチックのテーブル、エンビタイルの床。
視床情報が非常に悪い。

精神的にも落ち着かない。
心地よいテーブル、木目の床、精神的に落ち着く。

視覚的に落ち着く空間づくりもケア。
これも介護職の仕事のはず。

特別養護老人ホームの1日の流れ

7:30 挨拶
8:30 朝食
10:00 入浴
12:30 休憩
14:00 おやつ
・・・・
こんなのはケアではない。

介護保険法によるケアの定義

保険給付は要介護状態の「軽減または悪化の防止」に資するように行われるとともに、医療との連携に十分配慮して行われなければならない。

  1. 回復を目指す
  2. 現在の機能を保つ
  3. これができないときは最後まで寄り添う
  4. それとも害を与える?!

介護事業は要介護度が高ければ高いほど報酬が高くなる。
だけど、要介護度を高くするケアはケアとは言えないと僕は思う。

1963年 老人福祉法「療養上の世話」

2000年 介護保険法「自立の支援」
このように介護はフルモデルチェンジされているはずなのに、現場はぜんぜん変わっていない。

介護だから、何もしなくてもお客さんは来る。
だけど、数十年も前のものをそのまま売り続けて、普通は売れませんよね。

2003年 高齢者介護研究会「尊厳を支える」
2010年 地域包括ケア研究会「地域包括ケア」

どんどん変わっている。



介護とは自立支援


お茶を入れてあげるのは介護ではない。
一緒にお茶を入れたら、それは自立支援。
施設の庭に花を植えるのはレク。
公園の植栽の手入れを手伝えば、それはボランティア。
おりがみは自立支援ですか?
そんなことに介護保険使っていいんですか?
スタッフの「業務」は記録と車の運転だけ。
それ以外は高齢者と一緒にやる。
それが自立支援にもなる。

認知症の何が問題か?

認知症の困っているところが他人から見えないことが最大の問題。
認知症の人の困っていることはわかりにくい。

みんな大人だから、そのことを隠そうとする。
困った結果に出てきた症状(不安・焦燥・うつ・妄想・・・)を認知症の症状だと勘違いしているが、それはそうではない。

徘徊するから鍵かけようとか、妄想が強いから薬を飲ませようとか、そんなのはケアではない。

病気で困っている人が困らないアプローチができるのがケアの仕事。
困らない環境を作ってあげれば、認知症の人もただのおじいちゃん、おばあちゃんになる。

きちんとコミュニケーションができれば、食事の準備も、食後の食器の後片付けも、自分たちでできる。

自立支援を促す

高齢者のアイデンティティ(存在意味)に着目する。
できないところではなく、できるところを強める。

その結果、脳が活性化する。
弱かったところも強くなっていく。

記憶の種類から考えるケアのあり方

  1. 意味記憶
  2. エピソード記憶
  3. 手続き記憶
  4. プライミング(呼び水)記憶

上の2つは認知症で障害されやすいが、下の2つは障害されにくい。
障害されにくい手続き記憶、プライミング記憶に着目したケアを提供している。

認知症があっても、包丁で野菜が切れる、タイヤ交換ができる、棚が作れる、植木の剪定ができる。

刃物を持たせるのは危ないという方もいるかもしれない。
しかし、手続き記憶が障害されていなければ、刃物の使い方は素人の私たちよりもずっと上手。



マニュアルはないがミッションがある!

自立支援、地域のためになりそうだったら何をやってもいい。

どんなに綺麗に窓掃除をやってもらっても評価できないが、高齢者と一緒に窓掃除をしてくれたら、それは自立支援になるかもしれない。

「マニュアルがない。」のではなく、「マニュアルでケアなんかができるわけがない。」

喫煙も飲酒もあり。
一人ひとりの趣味嗜好は当然尊重。
グレーゾーンはある。

しかし、いいと思うことをやり続けて結果を出す。
自治体担当者に聞いたらダメと言われる。
だけど世論を味方につけて、仲間を増やせば、変えられる。
リスクが取れないなら介護なんて仕事はしないほうがいい。
介護は自立支援、それはリスクを取ることそのものだから。
なぜ高齢者になったとたんにリスクをゼロにしなければならないのか。
リスクを避ける努力をすればいい。

一番大切なのは信頼関係。

活動の特長

①即時性があり一人ひとりが能動的に参加
一辺倒な作業ではなく、特技を生かしたり、自然な流れで発生する手仕事、活動を自由に柔軟に取り入れる。
②みんなが活動を楽しんでいる
適度な運動量、活発な会話、笑顔などの効果により全身さらに脳への血流量も増加していることが見込めるセロトニンも分泌。
③一日中動いている(レクあたりのレクではない)
ほぼ毎日の外出活動があり靴の着脱、事前のトイレ、車の乗り降りなど付随する周辺活動の効果で十分な運動量が得られる。多くの活動が30分以上持続したもので心肺機能の維持・強化にも貢献している。

ユマニチュードの比較分析

見る・話す・触れる=ユマニチュードとよく似ている。
話し方に特長がある。

「座ってください」ではなく「なぜ座らないの?」
ユマニチュードのフローは、

  1. 出会いの準備
  2. ケアの準備
  3. ケア
  4. 感情の固定
  5. 再開の約束。

たとえば入浴。
私たちのケアのトップゴールは「入浴を通じたよりよい人間関係の形成」、しかし、多くのケアは「この時間に入浴介助」=「入浴する」ということがトップゴールになってしまっている。

●介護は何をする仕事か

●人にされたら嫌なことを人にしない
→「よりよい人間関係の構築」がトップゴール
極論すると、介護の仕事というのは、現場は介護職に任せればよい。
マニュアルで縛るのではなく、その人が現場でやりたいことをやれるようにしてあげたほうが、はるかに早くゴールに到達できるのではないか。

●「散歩にいこう!」といっても来てくれないが、「地域の清掃活動を手伝ってくれませんか?」というと、たいてい「仕方ないなあ」と協力してくれる。

●地域密着型が高齢者だけを見てるならサギ
放課後は子供たちのたまり場。
高齢者の近くで子供たちが自然に遊べる。
その中で、高齢者の中のすごさに気づき、高齢者に尊敬の念を持つ。
世代間交流イベントなど必要なのか。
普段からきてくれる子供たちは、何をしても来てくれる。
普段から子供たちが来てくれる当たり前の環境がつくれるかどうか。

●金儲けは最強の自立支援
高齢者と子供が一緒にいろんなものを作り、売っている。
地域の子供たちはだんだん商売上手になっていく(笑)
お祭りのときには敷地内に200~300人が集まる。
全部売れる。

こういう子供たち、5年・10年すると地域の核になっていく。
この子たちには、認知症や障害に対する偏見はないはず。
歳をとるということがどういうことか、知ることはとても大切なこと。



地域を支える

お年寄り=被介護者×
お年寄り=社会資源○
だから外には積極的に出かけます。

「子供を連れたお母さんに『ごくろうさまです』と言われる存在に!」

散歩だけじゃなく「公園愛護活動」に参加!
地域の方と一緒に、清掃活動や花壇を創ります。
手入れの講習会も参加。

忘年会にもお声がかかるし、介護教室の依頼もあります。
ラウンドゴルフでつながりも。
近所のおばちゃんも遊びに来てくれます。

レクはお年寄りを楽しませるためではない。
地域を楽しませるため。
認知症の高齢者が餅をつき、地域の子供に配る。
どこが認知症?とよく言われる。



50年後の世代に残せるCARE文化を作る。

●あなたがしているその行動が〔自立の支援と地域づくり〕になっているかを考える 今していることを地域でやるのが地域デザイナーたる介護職のしごと!外に出よう!

●トップゴールが「よりよい人間関係の構築」である
「危ないから」「でなければならない」は絶対にタブー! やれない理由を探さない。

●認知症で困っている人が困らないように寄り添えばステキなお年寄り! 「困ったね」は困らせた結果。その人の強み(ストレングス)から「誰もが活躍できる居場所づくり」を!

そもそも介護や医療のアウトプットはなに?

ケガしないことではない。
介護も医療も「QOLやQOD」のための道具に過ぎない。

①意識の高い専門性を使える人
専門性の鎧を脱いで仕事ができる人材
②学べる地域づくり
専門職も市民も
③住民意識の向上、こどもたちに借金を残さない
PPK



まとめ

「マニュアルでケアは出来ない」

決められたスケジュールはなく”即時性”を大切にし自然な流れで得意な料理があったら今から作ろうと買い物に行くことから始めるなど1人ひとりの特技を生かした手作業や活動を柔軟に取り入れています。

タイヤ交換、庭仕事、畑仕事など自主的にお年寄りが働けるようにきっかけを作ったり能力を導き出す作業を本当に丁寧にしています。

“当たり前のことを当たり前に”

介護の現場では”支配”と”管理”が仕事になっている。
そしてスタッフ自身がマニュアルやルールに縛られてしまっているとも。

“認知症で困っている人が困らない環境を作ればただのお年寄り”

安心して過ごせる環境を作るのが介護職の役目なのにいつのまにか問題行動を抑えることが仕事に。
認知症の症状ばかりに目を向けその人らしさを取り戻すことを忘れてしまっているのは家族も同じではないでしょうか。

かつて奥さんへDVをしていた男性やゴミ屋敷で暮らしていた女性など
公的な支援が届いていなかったり他の介護施設では受け入れが難しかった人達もいる。

その人達の元に何度も通いながら繋がりを築くことから始めたそう。
特別な魔法を使ったわけではなく、その人の魂に触れる対話を。

リスクが怖いなら介護の仕事はやらない方がいい。

厳しい指摘ですがリスクに怯えてしまったらお年寄りの日常生活を制限せざるを得ません。
でもそれでは可能性やその人らしさを奪うことに繋がってしまうのです。

人に真摯に向き合うことを知り、介護職のプロとして覚悟と責任を背負っている。
さらに”回復を目指すこと”それができなければ報酬をもらうべきではない。

高齢者の要介護度が重くなるほど報酬が高くなるシステムに問題があると私もずっと思っています。

“お年寄りが地域を楽しませる”

地域の中で役割を果たすことで生き甲斐を持つことができるのは高齢者だけでないと思います。

お年寄りから子供まで”共に生きる”そんな当たり前の地域の暮らしがおたがいさんを中心に作られています。
まさに”ノーマライゼーション”です。

地域を作るのは国や行政ではなく、その町に住む人達の手で作るもの。
立派なハコモノは必要ありません。人が集う場所があり共に考える所から地域のデザインが始まるのです。

認知症の人が困らない社会であれば、認知症は問題にならない。
その人が問題なのではなく、その人にとって快適でない社会やサービスを提供している我々の側が問題なのだ。

認知症の人が困らない社会においては、認知症の人は支えられる存在でもなければ、厳重に保護される存在でもない。

人格と個性、好き嫌いと得意不得意、そして尊厳を持った存在なのだ。

なぜ認知症の人にとって快適な社会を作らなければならないのか?
それは将来、認知症になる自分たちのため、そして自分たちを「支える」宿命を負わされかねない自分たちの子供や孫たちのため。
そして、なによりそれはすべての人にとって快適な社会であるはずだから。

成功事例はある。
なぜ成功したのかもわかっている。
あとは実践あるのみです。

 

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